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September 19, 2005

ヨイトマケの唄

釣りには、自分の運転する車で行くのだが、道中はラジオやMDを聴いていることが多い。早朝であれば、〝森永卓郎・朝はニッポン一番ノリ!〟、午前は〝くにまるワイドごぜんさま~〟、午後は〝高田文夫ラジオビバリー昼ズ〟、〝テリー伊藤のってけラジオ〟、〝荒川強啓Dキャッチ〟、22時以降なら〝アクセス〟という番組だ。何か歌いたい時は、MDを掛けて、こぶしを回しながら歌っている。先日、サザンオールスターズのアルバムを聴いていた時に、桑田さんの「ヨイトマケの唄」を聴いて、不覚にも涙ぐんでしまった。いろいろ調べてみたら、この唄がヒットしたのは昭和40年、作者と歌手は美輪明宏さんだった。ヨイトマケという言葉の意味を広辞苑(岩波書店)で調べてみると、〝重い物を滑車で上げ下ろししたり、綱で引いたりする動作を、大勢で一斉にする時の掛け声〟や、〝そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人〟と出ている。さらに調べてみると、炭鉱が閉山されて多数の炭鉱夫が職を失ったが、1955~73年はちょうど高度成長の時期で、その頃の建築現場で優先的に雇用されたということである。この唄の内容だが、エンジニアとして働く男性が、ヨイトマケの仕事をしながら日銭を稼ぎ、女手一つで自分を育ててくれた母親を懐古する唄である。僕が生まれたのは昭和36年、唄がヒットした年は4歳だった。桑田さんはたしか7歳くらいの筈だ。あの頃は、余計な金も物もなくて、毎日がサバイバルだった。僕の母親も、内職したり、鉄工場にパートに出て、親父の家計を助けていた。僕のような「鍵っ子」はたくさんいた。学校の行き帰りに泥だらけになって遊び、みんな青っ洟を垂らしていた。TVゲームなんてものはないから、遊びはすべて自分達で考えた、文字通りのオリジナルだった。そして、家に帰ると、薪と石炭で風呂を沸かすのが僕の仕事だった。僕の親父は地方公務員だったのだが、お袋と結婚した時は家賃が減免される市営住宅に住んでいた。今振り返ると、ここは時代劇の長屋と同じで、困ったことがあると、みんなで助け合って生活をしていた。住宅の住民が差別的な目で見られているということに何となく気が付いたのが、小学校の高学年の時だった。僕の家族は、その後、庭付きマイホームに住み、マイカーで出かけることができるようになった。サザンの桑田さんも似たような体験があって、共感できる部分もたくさんあるかもしれない。この唄を聴いているうちに、差別や偏見を受けてきた美輪明宏さんの原曲を聴いてみたい衝動に駆られ、ネットで注文してしまった。また、もののけ姫で有名になった米良美一さんもカバーしていることを知り、これもまた買ってしまった。

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